突然こんな事を申し上げるのは大変恐縮なのですけれども、所謂「武道」と名乗る格闘技は総じてうんこなのだと思い当たりました。
いえ、決して「武道なんてくだらねぇ」等と申し上げる気は全くございません。
うんこ」であると申し上げたいのは、欲望の源泉としての「うんこ」、糞便の事でございます。

 先日、帰宅の電車の窓に映るわたくし自身の疲れた顔を眺めながらふと思ったのです。
「武道」をやっておられる方の多くはよく「武道とは精神修養なのである」と仰います。
若い事のわたくしであれば「なんだ。殴ったり投げたりする事の何が精神修養なのか」と鼻で嗤っていたことと思います。
しかしながら、今になって思うのは「武道」とは「やられる」という事に意味があるのだという事です。

つまりこういう事です。
座禅を組んでいる時、雑念を抱くとお坊さんに肩を叩かれます。これは一方的。お坊さんにメリットはないのです。
しかし武道と言うものは、その「雑念が見て取れた(隙ができた)事を見て取って殴る(なげる)」という事を相互に行うわけです。
うんこ」の応酬です。あげるもの。まなざしと声を得るもの、です。
「キエーッ」という叫びとともに、うんこは欲望の源泉となっているものを求める代償として消えていきます。
そして得られるのは相手からのまなざし、いえ、<対象a>からのまなざしなのでしょう。

もっと乱暴に言わせていただければ、「真剣に武道をやる俺ってカッコイイ」「精神修養がまだ足りない!と思っている俺カッコイイ」
という(本当は存在していない第三の)メタ的な視線を与えあっている、と、そういった塩梅の事なのではないかとわたくしは思うのです。
友情、恋愛、好敵手等々、相互的にやり取りの或る何某かは、つねにこの媒介者たる「うんこ」のやり取りから生まれているのだろうと思います。

さて、まだうんこについて何も申し上げていません。
あの頃、うんこをするとどこからともなく、耳に心地よい音が入ってきました。
うんこをするとすぐに心地よくしてくれるまなざしがありました。
うんこをすると、この上どこからともなく乳房が現れてお腹を満たしてくれました。
心地よい。しかしこれらは既にありません。まなざしも声も乳房もいなくなり、それは「母の」まなざし、声、乳房、となってしまいました。
つまり、どこからともなく現れるあれらではなくなってしまったのです。あれら、がいた位置が欲望の源泉となっています。
そしてあれらを呼ぶ、私からのシグナル、うんこです。
およそ与え得るものは全てうんこです。「欲望を満たしてください」というシグナルの応酬です。

そんなこんなで、武道とは座禅の時の棒持った坊さんがふたり、互いの雑念を祓おうとする行いであり、その意味で精神修養である。
という事と、それを行わしめる、その欲望を駆動させるのはうんこである、という事なのだろうと、わたくしは思うのでございます。

ついでに。
労使の関係では金が欲望を媒介します。それだけでなく、普通の人が欲望を満たそうとする時も金が欲望を媒介します。
吝嗇なやつは「尻の穴が小さい」。どっとはらい。