soldier
Creative Commons License photo credit: Shockadelic

まだ買っていない。そして読んでもいない。

しかし、タイトルからあてずっぽうで内容を推測してみる。
「なんでそんな無理そうなことをするか」って?
「梅雨明け→夏→夏休み→宿題→読書感想文→よく7/31に読みもしないで、しかも架空の本と架空の作家をでっち上げたなぁ」と言う思い出からの連想。
久しぶりにでっち上げてみる。

タイトルはこうだ。
「ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」

そして著者はジジェクだ。旧共産圏出身の彼がいつも通りのラカン語で語りまくるのだろう。そして新書なので紙の都合があろう。

きっとこう来る。ざっと書いてみる。

 「社会主義」「共産主義」「左翼思想」「革新」なんでもよい。つまりその辺の思想(めんどくさいからとりあえず「左翼思想」に統一する)についてとりあえず言える事は、これらが大文字の他者に依存していると言う事だ。
ユートピアは誰にとってユートピアなのか。「わたし」にとってだろうか。しかしそれでは「保守」でも「資本主義」でも「わたし」にとって「快」であれば「左翼思想」でなくても構わないだろう。

「左翼思想」は、例えそれがお題目であれ「(結果が)平等」でなければならず「歴史的視点」による審判が(その時点で)なされなければならない。
それゆえ大衆は「公式には」「左翼思想」を礼賛していなければならない。未来に書かれる歴史の教科書には「公式には」という面のみを載せなければならないからだ。

 一方で支配する官僚は、結局は個人の断片の集合である「社会」を相手にして、経済を計画しなければならず、制度は設計しなければならず、法律を作らねばならず、「公式」の民意を演出しなければならない。「(今この時)未来から評価する視点」、「制度や経済は『科学的に』設計され得るという視点(あるいは脅迫)」、「人民のために」と言うタテマエ視点と格闘しなければならないのだ。これらは大文字の他者に依存していると言ってもいいだろう。

これは、前にも書いたことだが、とても「鬱病」的であるといえるだろう。
 ノルマは良し悪しは関係なく課され、そしてそれはとにかく達成されれば良く、なされる通信は常に傍受し、生産される道具は用を為せば優れていなくても良い。労働者は常に「勤勉で欲深くなく隣人と団結する清い人々」等々、用意された人物として振舞わなければならない。そこに通常現代の我々に想起されるような「快」はなく、ただ脅迫的な、反復的な、そして喪に服すような何かが横たわっている。

「ブルジョアジーに虐げられた大衆」という悲劇的な立場(とされる)人々による団結と蜂起と自主的な統治という、つまり社会主義国家の成立と言う「『悲劇』からスタートして大団円を迎える物語」が、また悲劇に戻って終わった。
(ここからも解るようにこの物語の主人公たる労働者階級は、「悲劇」の人でなければならない)

これをもう一回再現しようとするとその筋と内幕を知っている現代人にとってはパロディになってしまう。うつ病を克服した人間が、「克服した」と知っている人間の前で「うつ病」を再演したとしたら、メタ的な視点ではやはり(趣味の悪い)パロディになるだろう。それはどちらかと言うと喜劇に属す。
案山子に驚いて逃げ惑った過去を、もう一度再現したならばやはり喜劇になってしまうのと同じだ。

ここで誤解のないように念の為書いておくが、僕は「うつ病など大した事がない喜劇みたいな病だ」と言っているわけではない。
「メタ的な視点を持てるようになった段階で」「再演する事」という内訳を認識した上でそれを見た場合には、それはパロディであり喜劇に属すと言っている。
うつ病患者当人の辛さは良く知っている。僕がそうだから。

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 すげぇあてずっぽうなんだけど、こんな論調でくるんじゃなかろうか。
そしてもう一捻りあると思う。タイトルの「ポストモダン」と言う部分に触れる部分。
ここが見所なんじゃなかろうか。

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 ってか近所の本屋にない。アマゾンに頼んでも2~3週間かかるみたいだ。
神保町でもいってみるかなー。