その昔、「3年B組 金八先生」のどのシリーズであったか、またどの話であったか覚えていないが、大変にショッキングなシーンが堂々と公に放送されていた時代があった。
幼かった僕はそれを観て言い知れぬ違和感を覚えたものだ。
僕はそのシーンを思い起こす度に、その衝撃を新たにする。
そのシーンはおおよそ次のようなものであった。

 生徒の一人が卒業後の進路を決めなければならない時期に差し掛かり、自衛隊に入って国防を担おうという決断をする。
それの決意を聞いた武田鉄也は半狂乱状態となって「お前を人殺しにしてなるものか」と叫ぶ。
僕の記憶が確かなものであるとすれば、明らかにそれは生徒に対してではなく自衛隊員に対する罵声に他ならなかった筈である。
それが時代の空気に他ならなかった。
 しかし実のところ、当時の自衛隊法では仮に外国の軍用機が無許可で日本領空に侵入してきたとしても、自衛隊機から発砲する事は許されなかったのであり、侵入した軍用機からの発砲があってはじめて「正当防衛」という形での発砲が許されるのみであった。
「人殺し」どころか「撃たれる為に」スクランブルをかけるという有様であった。

 以下に書く文章は、当時その宗教弾圧に似た迫害の空気の中で犬死を覚悟しながら、ただ黙々と訓練と任務に就いていた自衛隊員への、せめてもの慰めとして書く事にする。
当時の空気を病理とする事で、気休めであっても溜飲を下して貰えればと思う次第である。

 支配的イデオロギーになろうとする時、その核となるメッセージは隠されなければならない。
その為、多くの信奉者にとって、その信ずるところのイデオロギーは核のない空虚なものとなり、恣意的に、個々の判断でその空虚さを埋めざるを得なくなる。

 多くの場合、核のない空虚なイデオロギーは(「民主主義」のドクマとあいまって)その核が虚ろである事を(大文字の)他者に知られるのを防ぐ為に、積極的な、献身的な「運動」という形で、 ― 歴史への責務、社会への責務等々という名分を採りながら ― エクスキューズされざるを得ないのである。

少し言い換えよう。
彼らは、信奉しているイデオロギー(それは多くの場合自身のアイデンティティを保障する)の核が実は何もないのだと大文字の他者に知られる事のないように、たとえそれが合理性、論理性を欠いていたとしても、それを代替する贖いを付加することで、その犠牲に相応しい価値のある実体があたかも存在するかのように振舞い、信じているフリをしなければならないのだ。

それを更に強固にする要素として「人間は常に合理的な判断を下す事が出来る」という思い込みがある。
これによって(自身も多分に非合理的であるにもかかわらず)現実との距離を考慮しない「理想」が先行する。そしてそれは多くの場合「社会は設計できる」という誇大妄想を伴う。
「理想を持つ事は素敵な事でしょ?それを実現しようという私って素敵でしょ?素敵な事なんだから貴方はこれに従わなければならないでしょ?結果はどうあれ理想を目指したんだからそれは正しいでしょ?私はいい人でしょ?なにか文句ある?」という心情が先行する。そこに現実との整合性は存在しない。

 「自由」が最も有効な力を発揮するのは、各自の“主観的な”合理性を尊ぶ際である。
つまり人間が「常に合理的」では決してない為に、無限とも思える選択肢を人海戦術的に試みる際に発揮されるものである。
 この病の患者はその「自由」に依拠しているにも拘らず、「理想」を先に掲げ(掲げる事自体は良いのだが)それを思い込みに基づいた「合理性」「計画性」によって実現させようとし “人間の限界(多くの場合 “思わぬ見落とし” として現れる)” を考慮せずに制度を設計しようとする。自らの「理想」の視野の外は想定しない。

加えて「信じているフリ」の維持の為、異なった考えや疑義を許容しない。許容すればその信仰はたちまち崩れるからである(「視野の外」を想定する事もまた同様である)。つまり異質な考えの許容が「信じているフリ」を成立させなくする為の自己防衛である。

 この作用は転じて「抑圧」として機能する。それは異なる考えを持つものに対して“ではなく”、信奉者自身に対して作用する。
それは患者内面の “「信仰」に対する疑義” を抑圧する。
その抑圧は、古典的な言い方をすれば「ヒステリー的」症候を引き起こす。

その症候は父に向かう。
太平洋戦争の失敗、バブル崩壊をもたらした、つまり我々を去勢する主体に向かうのである。この場合前者は日本政府であり、また米軍であり、後者はアメリカである。
政府ではない文化圏としての「日本(母)」を巡る対立であり、父へのヒステリー的抵抗を引き起こす。
こうしてエディプスに回収する事は容易であるが、患者はアイデンティティの喪失を阻止する防御的な反応を示す為に宗教的色彩を帯びはじめ、かくして多くの議論が宗教論争の様相を呈する。
リアリズムに基づいた思考や、真摯な思考は異端として迫害されるのである。

しかしながら、彼らには抵抗のみが可能であり(空気ではなく権力的な意味合いでの)支配に回った時に恐慌を呈する。
何故なら、実は患者自身が「理想が実現する」と信じておらず、それまでの振る舞いが単なるフリであり、支配側に回った段階で「理想を実現する」方向に回す余力はなく、労力の多くが「信じているフリ」を貫き通す為に使われるからである。

 せめてもの救いは情報コストが0に近くなっている事だろう。
これによってこれからの世代におけるこういった病の罹患率は減少傾向になってゆく事だろう。