僕たちが最後まで手放さないほうが良さそうなもの。
それは「存在してよい」権利だろう。
どんな性格のやつでも、どんなに(現状の社会的基準において)ダメなやつでも、どんなに面白くないやつでも、どんなに仕事が出来ないやつでも、どんな嘘つきでも、どんなに不細工でも、どんなに頭が悪くても、どんなに貧しくても、存在して悪いわけがない。どんな存在も否定されてはならない。
 しかし悲しい事に現実には、今もあちらこちらで何らかの「気に食わない」という恣意的な理由において排除される人々がいる。
排除する側に言ってやろう。「あなたには愛がないのだ」と言ってやろう。
そしてこうも言ってやろう。「あなたが良いものだと思っている筈の『愛』とは、自らの視野にどれだけ多様な存在を許容するかの尺度なのだ」と言ってやろう。
そしてこう付け加えてやろう。「わたしはあなたを許す。それがわたしからあなたへの『愛』に他ならないからだ」と言ってやろう。
そして家族や友人に、気障な事を言っても良いタイミングでこう言ってやろう。「わたしがあなたに『愛している』という時、それは『わたしの近くにいても良い』という事であり、あなたがわたしの近くにいるという事は、わたしに愛されているという事なのである」と言ってやろう。
同時にこうもキメてやろう。「排除されがちな人は、あなたの『愛』の大きさを試す存在であろう。あなたとは異質な存在をどれだけ許容できるかが、あなたの『愛』の大きさを示すだろう」
深さを問われたらこう言ってやろう。「一番近くにいるものがわたしに深く愛されているのであり、一番遠くにいるものはわたしに浅く愛されているのだ」と言ってやろう。

何故わざわざこんな簡単な事を書かなければいけないのか。
それは多くの人があまりにもこんな簡単な事を忘れているからである。
もうひとつ、忘れてはならない事がある。
それは「それを押し付けてはならない」という事である。許容する事なのである。押し付ける事とは違うのである。押し付けは排除に繋がるのである。重要なのは「存在してよい」と認めることなのだ。その人が嫌いなら無理に自分の視野の中に入れておく必要はない。つまり愛さなくて良い。ただ否定してはならない。こうして皆の前に「幸福」は訪れるだろう。

 はい。キリスト教新派閥いっちょあがり。