昔、UO(Ultima Online)にハマっていた事があった。
そのハマりっぷりは、そりゃもう凄いものだった。昼は会社という空間に生き、夜はブリタニアに生きているといった塩梅で、一日のうちに二つの人生を送っていたと言ってもおかしくは無い状態だった。

今でも時々、別のMMOゲームをプレイする事はあるけれど、あの頃のような情熱を傾ける事は無くなった。歳を取ったのか、所謂「リアル」のほうが面白くなったのか、純粋に飽きたのか。
否。
MMOが面白くないものだらけになっただけだ、と強く思う。

今でこそUOは、事象を数字で表し、スキルを上げとアイテムを獲得する事が目的の「わかりやすい」ゲームに成り下がってしまっているのだけれど、初期のUOには(ここが創始者のリチャードギャリオットの偉大なところだと思うのだけれど)ゲームという側面の他に「世界をシミュレートする」という側面があったのだった。
これがすごかった。なんでもアリでしかも全体の把握に時間の掛かる不親切なものだった。

 相手(怪物であったり、人間であったり様々だ)へのダメージは、HPを表すゲージの変化でしか解らない。自分がどのくらいダメージを与えているのかが数字としては出ない。
自分が手にする武器にも「攻撃力」という具体的な数字はついていなかった。
 そして、怪物を相手にして戦っている見知らぬプレイヤーに干渉する事も出来た。
後ろから黙って回復魔法をかけるという「通りすがりの善人プレイ」も出来たし、逆に怪物と共闘する形で見知らぬプレイヤーを背後から襲うという「悪人プレイ」も出来た。
勿論、戦いを望んでいないプレイヤーを一方的に襲う事も出来たし、家でくつろぐ(UOではプレイヤーが好きな場所に家を建てられる)プレイヤーに、屋外から攻撃魔法を投げつけて襲うとか、パンに毒を塗ってばら撒きそれを拾い食いしたやつを死なせるとか、他人の家に手なずけたドラゴンを放してパニックに陥れるとか、逆にそういった悪人を懲らしめたりもできた。

それぞれのプレイヤーは、何をしてもよかった。何屋を名乗っても良かったのである。
職業にはそれこそ無限にパターンがあった。
辻説法でお布施を貰って生活しても良かったし、口ひげを蓄えた汚いオカマとしてよその人に付きまとって「手切れ金」を要求しても良かったし、純粋に物乞いをしても良かったし、客に厳しい鍛冶屋をやったり、「記憶喪失RP」でウケを狙って(そしてご祝儀を貰って)も良かった。体術に優れた料理人としてプレイし「沈黙シリーズ」を気取っても良かった。

何を言いたいかというと、初期のUOは「圧倒的に自由」でかつプレイヤーに不親切だったのだ。
不親切であると言うのは「わかりにくい」のと同時に「世界全体の把握に時間がかかる」といういうことが大きかった。
強い探究心を持ってウロつかないと絶対に見つからないものや、意味のなさそうなオブジェクトがそこらじゅうにあり、「あとはプレイヤーの工夫次第で楽しんでください」的な要素が強かった。
現実にとても近かったのだ。純粋なゲームだと思って始めると何をして良いのかサッパリ判らない。

それから数年。
数あるMMOゲームを見渡すと、ほとんどが単なるレベル上げゲームであり、アイテム獲得ゲームに過ぎない。わかり易すぎるのだ。

 MMOをビジネスとして捉えれば、細々とお金を取って「一人のプレイヤーに3年くらい遊んでもらう」事で利益を上げようというものだから、レベルあげに四苦八苦させ、レアアイテムを獲得する事に努力させ、沢山のクエストをこなさせる、といった方向で時間を使ってもらうのがモデルとしては妥当なところだろう。
初期のUOのような作り込みをしていては、コストが掛かりすぎるのもわかる。

だが、考えてみるといい。
初期のUOのような作り込み、つまり世界を構築しようとしたその試みは、もし創始者たるリチャードギャリオットが解雇されなかったらどう進んだろうか。
 言うまでも無く彼の手法は、現状のMMOの流れとは全く逆だった。
「作りこんだ世界をユーザーに提供し、ユーザーがその把握に数年を要している間、次のパッチを開発する」と言うものだった。
 これは僕の口から言うなら「“判り難さ”が人間に齎す作用に対する反作用としての探求心」を利用したビジョンだろうと思うのだ。
 これは単に「『UO開発陣から齎される“判り難さ”』に対する反作用」だけではなく、現実社会から齎される“判り難さ”、“生き難さ”に対する反作用もあいまって、提供された擬似世界への探求、その世界を征服する(把握する)、或いは「自らの生活とその世界を、自らのコントロール下におきたい」という欲望を喚起すると言うメカニズムを発生させるものだろうと思うのだ。
 初期のUOは一見したところの“判り難さ”をエサに、征服する欲望を喚起しながら、実はプレイヤー自身がリチャードギャリオット(またの名を“ロード・ブリティッシュ”)に征服されているという実に面白い構造を有していた。

(プレイヤーにとって)「わかり易いもの」は飽き易い。
プレイヤーが(知らず知らずのうちに)征服される事が無いからだ。

 もっと言ってみよう。
「アイテムを頼りにしたゲーム」は、モノによってその世界が構築されている。
故にモノを征服したら終わる(クリアする)のだ。
出来るだけ終わらないようにするには、その世界を、それこそウィトゲンシュタインが言うように“世界とは、出来事の総体である。”としなければならない。世界とはモノの総体ではないのだから、常に何かが起きるようにMMOを構築しなければならない。
 自然発生的な出来事がプレイヤーをその世界に繋ぎとめ続けるのなら、これほど良い事は無いだろう。

 そういったプレイヤーの自発的な探求に全面的に頼るようなモデルでは、構築するのに時間とコストが掛かり、元が取れないのではないかというのは良くわかる。
ただ、現状の「レベル上げ、アイテム獲得、おまけとして他者とのおしゃべり」に収束しつつあるMMOは、このままだと昨今流行のケータイ無料ゲーム的な次元に落ち込んでいってしまうだろう。ただポチポチボタン押して、無駄な時間を使うだけの無意味に過ぎる、もっとキツく言ってしまえば「おっさんの貧乏ゆすり」に等しい代物になるだろうと思うのだ。
ユーザーに媚びる形での「わかり易さ」はとても危険だ。
「わかり易さ」の周囲には刺激的な出来事は起こりづらい。倦怠期に陥った中年夫婦を思い浮かべれば見当がつくだろう。
そういった「判り易さ」はMMOとその開発者を殺す結果になるだろう。

MMO開発者の方々には「原点に帰れ」とは言わないけれど、もうちょっと原点を「横目で見て」進めていって欲しいなと思う次第だ。

(「ユーザーがその把握に数年を要する」の中には、様々な遊び方の発明も含まれる。僕の発明した遊び方は、目的も性格も思惑もプレイスタイルも全然ばらばらなプレイヤー達をいかにしてひとつのコミュニティーにまとめ、かつ一定の方向性に向かわせずに、つまり“組織化せずに”維持するかであった。この遊び方で得た「つかず離れずで“マルチチュード的に”まとめる手法」についてはいつか書きたい)