いきなりこんな事を言い出すのはなんだけど、“無理矢理『坂本龍馬のマネ』をしなくてはならない”という無理難題を押し付けられたら十中八九の人は、渋い顔をして「日本の夜明けぜよ!」と叫ぶだろうと思う。
 この「日本の夜明けは近いぜよ!」というセリフの出典が突如として気になり始めた。
何が出典なのだろう。ググっても出てこない。
きっと司馬遼太郎かなんかが、作中で勝手に言わせたセリフなんじゃないか、とかそんな風に思うんだがどうだろう。

もしそうであるなら、名ゼリフがあまりない偉人に勝手に何か言わせて定着させちゃう事も出来るだろうなと。定着させた奴が勝ちだなと、そう思ったり。
 例えば、小野妹子とかに「日本は狭いアルよ」と言わせてみたり、鑑真和上に「拙僧が一部始終を見届け申した」と(なんか不謹慎っぽいけど)言わせてみたりとか。

まぁ、どうでもいいや。

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 「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」

とは、オバマ米大統領の言葉だけども、こんな事を言い出す一方で、うちの首相は「友愛」と言うキーワードを謳い上げる。その上、自民党の新総裁が「みんなでやろうぜ!」とか言い出した。
ちょっと前まで、新自由主義がどーんと聳えていて弱者の言う事など屁でもない感じだったわけで、なんというかその“「みんな」感”って、
貧富の差拡大→ファッショ
みたいな、どっかで見た風景っていうか、そのまぁ、杞憂であればいいんだけど一抹の不安。

もし空が本当に落ちてきたとしても唯一の救いがあって、それはうちらの首相が環境問題を中心に物を言っているところなんじゃないか。

シュミット風に(しかも乱暴に)言えば政治というのは「友/敵」を別ける操作なわけだから、何かのキーワードで有象無象を束ねようとする時、敵を作らなければならなくなるわけだ。
「国家が人間と認める集合」が「みんな(友)」なわけで、それ以外は「敵」としなければならない。これまでの歴史であれば、「マイノリティを人間以外とする」か、「対立する勢力(または他国)に住む人間を人間以外とする」かってところだったと思うんだ。
けれど今回の
貧富の差拡大→なんらかの何か(多分ファッショ)
という動きの中では、「国家」を軸にして有象無象を束ねる作業の外に現れる「敵」というポジションに「環境問題」という、そもそも人外のものを当て嵌める事が出来る可能性があると思うのだ。
 まぁ、それでも「汚す奴は人に非ず」とか言い出して大変な事になる可能性もあるとは思うのだけれど、巧くやれば「環境問題」とか「貧困」とかそういう、概念的なものをあたかも実体があるように見せ掛け、ファッシズムを成功に導く事も可能っちゃ可能だと思うよ。悲惨な流血を伴わないやつね。まぁ、大変だと思うけど。

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 いや、別に「ファッショっぽいからダメ」とか言ってるわけじゃないのよ。
人間は生まれながらにして全体主義的だしね。
何故なら、他者を通してしか自己を認識できないんだから社会を重んずるのが人情って話で、しかもちょっと前(現段階もまた)個人主義的な民主主義に振れていたんだから、その反動で社会主義的な民主主義に振れようとするのも人情って話だと思うんだよね。(※)
僕が不安がっているのは、“誰を(何を)「敵」とするのか”なんだ。
過去が過去だけに。


人情ってぇのは、裏に義理ってもんが無ぇと成立しねぇってぇなわけで、いやぁ、まぁ、その、義理と個人の情動とのせめぎ合いの中に人情ってぇもんが現れるって話で。
「勝ち」「負け」で別けられちゃぁ、どうも人情が感じずれぇってな話なわけだ。
衆院選見てみりゃ、まぁ、「昔の自民党のパロディ」みたいな民主党が勝っちまったってぇ解釈もできるわな。
これをシミュラークルと呼んじまって良いもんかは、自信はねぇって塩梅だけども、まぁ、改革ってぇよりは保守に振れたと言っちまっていいんじゃねぇかなぁ、なんてな。
(↑精一杯落語風に書いてみた。)