ええと、浮気のチャンスを目の前にして「進むか、退くか」思い悩む友人を唆す悪い文章(笑)

むにゃむにゃと長めに書いて煙に巻きつつ「ちゃんと読まないでいれば凄く説得的」な感じで書いたんだと思います。
ええ。常識的に見れば悪い人間です僕は。何か、それで悪い事でも?

DATE: 03/13/2005 12:50:11 PM

「情報化社会」と言われて久しいですが、そこで重要視されている「情報」というものは、結局のところ我々に対する「断片的な過去を追体験させようという圧力」ではないでしょうか。ほとんどの場合、私たちは毎日大量に流れてくる情報に対して、自ら検証するというプロセスを省いていますね。そりゃ確かに、いちいちこの大量な情報を検証していては体がいくつあっても足りませんから、まぁ、仕方ないといって良いでしょう。しかし、それは基本的に「断片的な過去の事実」を繋ぎ合わせて空白の部分には憶測、推測を適用していくわけです。そうして「世界」らしきものを作って見る。丁度、縄文や弥生土器の復元に似ていますね。その点において、情報から「世界」らしきものを認識しようという事と、考古学とはさほど違いは無いと言って良いかとも思います。
縄文人のライフスタイルや、意識などは、発掘されたものから推測する他はない筈です。
それと同じように、私たちの「世界らしきもの」への認識は、憶測であって、または「断片的な過去の事実を含んだ妄想」でしかない筈です。従って、そのような方法での「世界らしきもの」への認識を土台に、その先を構築しようとすればするほど、歪な形になっていくと言ってしまって良いかもしれません。
ひょっとすると、復元された土器の憶測の部分(石膏かなにかで白くなっている部分)に、何か突拍子も無い部品があったかもしれません。

結局、私たちにとっての「世界」とは自宅と会社との往復、それと友人達と遊びに行くところ、一言で言えば「五感で認知した範囲」でしかないでしょう。また、言葉によって表された(かに見える)「世界」の実像(らしきもの)も、結局のところその表された言葉の中には「世界」を理解する上での本質的なものは存在しておらず、結局のところそれを表した本人のイメージの中にしか、本質を理解する為の重要なものはないでしょう。
ここの部分を充分に理解しておらねば「誰にも認知されない認識の食い違い」の集積が世界を歪めているということに気づかないでしょう。しかし、理解しておかないほうがコミュニケーションをする際常に「理解の齟齬がある」という脅迫からは逃れられるでしょう。

進化や進歩と呼ばれる時間の経過を経て、現在の人間に至るまで脈々と受け継がれてきた、普遍的なものがあるように思います。
例えば、日常的な場面で修羅場となりうる男女間の「不貞行為」を例に挙げてみると、人工的に作られたあまりにもまっすぐな定規を当てている所にこそ「不貞行為」という「歪み」を見出すのであって、それそのものは、いかに複数を相手にしているとしても、それぞれに独立して成立している筈です。ただ、そのそれぞれに成立している普遍的な「生物的な行為」を配置しなおそうとし、また、それを「倫理」という人工的なまっすぐさを当てる事で“歪みを新たに創り出し”ているのであって、そこに本来的な「意味」は見出せない筈です。
従って、それは一様に「見做し行為」であり「ゴッコ遊び」なのであって、いかに修羅場であろうと、仮に流血を伴うものであろうと、それは単なる「ままごと」に過ぎないでしょう。
これを、より全体に影響するレベルに拡大して解釈するならば、いかに我々が無意味な様式的生活を送っているかが理解されるでしょう。それら“様式”には、本来的な意味は含まれていない筈です。

しかしだからといって「自然に帰れ」などと言い出すつもりはさらさらありません。

もし、日常におこる諸々の問題を一気に解消しようとするならば“普遍的なもの”を放棄するか、“人工的なまっすぐさ”を放棄するかの二択となるでしょう。