FaceBookに文字制限があるのか実験してみた。
4054文字まで書いて力尽きた。
一体何文字まで投稿が可能なのだろう。恐るべしFB。
折角なのでここにも転載。

==ここから転載==

さぁ、FBに文字制限があるのか実験だ!
内容に関しては僕のうわごとだと思って流してね。読んでもいいけど!
論理に穴があっても知らねぇ!

==ここから実験開始==

 前々から思っていたのだけれど、「第四の権力」はマスコミなんかじゃない。

企業だと思う。

 企業は「労働で得た利益を分配する」機能を持つのと同時に「秩序を維持する」装置でもあると思うんだな。
 法に守られない、また拘束されない人間を考えてみる(アガンベンはこれを『ホモサケル』と名付けた)。拘束されない代償として、法による「生命財産を侵害する者への抑止」もなく、生存すら危うい。あら怖い。

 一方で、企業に守られない「自由な」フリーランスの大変さを思い浮かべてみる。
企業に拘束されない代償として、「安定(或は保護)」がない。一寸先は闇と言った具合なのよね(ここでは『もう正社員も危ないからフリーランスとの差はない』と言う考えは受け付けない。何故なら、法を執行する国家は存続の危険に晒されれば法の拘束力を失う。時に憲法も停止されうる。同様に企業も存続の危険に晒されれば従業員の『安定』への担保は失われる。構造としては近代からの企業とは国家の模倣である。だから、と言ってはなんだけど『もう正社員も危ないからフリーランスとの差はない』と言う考えは次元の違う問題であるから)。

企業なしで、「労働者」を自然な状態でほったらかしたらフリーランスとして意気揚々と自爆していく人間が増え、現在よりも格差が拡大した不安定な社会を作り出し、法はなし崩しになるだろう。
企業とはそれを防ぐための装置だと思うんだな(特に日本では。ITバブル真っ盛りの時期に国民の皆さんが過剰反応してホリエモンなんかを大した罪じゃないのに逮捕させ、バッシングさせるまでの事態になったのは「この『装置』が壊されるのではないかという不安」故の事だと思うんだよね)。

 僕の考えとしては、「慣習>明文化された法律>行政>企業>個人」という塩梅で社会は安定している。リベラルっぽいジャーゴンで言えば「構成的権力>暴力装置(国家)>法律>企業>個人」。マスコミは埒外。
(リベラルをもっと揶揄できそうだけどやめとく。あと、「個人とは何ぞや」なんて言い出すのもやめとく。だって「人権」とかが慣習に含まれるのか個人に属すのか難しいんだもん)

 上記の理由でマスコミを「第四の権力」とみるのは錯覚だろうと思うんだな。傍証として他の三権のような、互いに牽制するじゃんけんみたいな構造にマスコミは入っていないじゃん、ってのがある。
一方で企業は行政、立法、司法の集合、つまり国家のあり方に対してNOを突きつけることができるんだな。資本に対して国境が干渉することはなく、「その地域の行政、立法、司法」に干渉されるだけだ。だから逃げればいい。
「逃げる(資本の移動)」という事によって他の三権への牽制がなされる(このまま原発が全面的に、法の裏付けのない「菅直人からのお願い」で停止したままでいると製造業、特に大規模な工場を持つ資本が逃げていくのではないかと僕は戦々恐々としている)。そして行政は企業を監視することができる。互いに牽制できるのだ。
だから(三権+もう一権で)四権とはじゃんけん的に牽制しあえる、立法、司法、行政、企業であろうと思うんだけどどうよ!
(ってか企業と資本を厳密に分けずに語っちゃってごめん)

さぁ、文字制限実験だから伸ばすよ!

 ここで「ブラック企業ってのもあるんだから上の論理は通らないんじゃないか」という反論もあるかもしれないので、書き添えておく。

 ブラック企業というのは、終身雇用から漏れてしまった人材の受け皿になっている。結果的にではあるけどね(でもその「結果」は保守の立場では肯定されなければならない。それは有機的に「慣習」として構成されるんだから)。

 「ブラック企業≒使い捨て」とも言われるけども、それは労働力の流動性を実現しようという動きだ。「嫌だったらやめればいい」の世界。日本では終身雇用がメインストリームのままだから、終身雇用それ自体がボトルネックになって労働力が本当の流動性を確保できないでいるだけだ(ここのところを嫌って資本を海外に移す企業もあるよね)。
労働力全体が流動的であるのが当たり前であれば「ブラック企業」は存在しえないと思うんだよな。全体が流動的であれば、人材の流出を恐れて「ブラック」足り得ないんだもん。

 ここで想起されるのはネグリ&ハートのコンビによる「帝国」と「マルチチュード」の概念。言語の壁さえクリアできれば、労働力がより有利な地域(国)へと流れていくこともありうるだろう(ネグリは言語や習慣という壁を考慮に入れてない。ざんねーん!)。
 「ブラック企業」ってのは僕の思うところ「マルチチュード」を助ける装置だと思うんだよね。法の上位にある(筈)の慣習(ネグリ的に言えば構成的権力)が変化すれば、つまり終身雇用がメインストリームでなくなれば、現在「ブラック企業」と呼ばれている企業は、流動的で柔軟な働き方を提供する優良な装置と位置付けることができよう!(なんつってな)

 労働力の流動性と柔軟な動きは、各産業の盛り上がりと衰退に対応する事ができるだろうし、流動的なんだから労働者は常に食いっぱぐれない。人手不足のところへ行けばいいんだもの(この前提として、ビジネスは常に効率化を求めているため、どの産業においても徐々に労働力が機械化によって熟練を必要とされなくなるってのがある。そろばんからPOSレジへ。客と交渉する類のサービス業以外は、だけども)。かくして(多分にローカルにではあるだろうけど)ネグリの思想は成就する。

 で、だ。「ブラック企業」も状況によっては社会を安定させる装置となりうるし、第四の権力の一部になり得る。慣習が邪魔してるだけってこと。
だけど慣習も有機的な動きをするものであるから(マルチチュード的なものであるから)、邪魔しなくなるようになる可能性もかなーりある。司法、立法、行政、企業の四権は、多分に有機的な慣習によってあり方を変えながら、流動性の増大に対しても安定をもたらす秩序維持の装置として存続し、どーんと構えていくだろうと思うんだな。
どお?これで反証は抑えられたかな?

 今書いててふと思ったけれども、企業のまた違う一面として「ファルスを満足させる装置」とも言えるよなぁ、と思ったけどラカンまで動員するとジジェクの劣化コピーになりそうだからやめとく。

 さぁ、それはそれとしてこの投稿が全文字反映されるか!?

 反映されちゃったから、文字増やす(泣)

 ど、どうしよう・・。

 じゃぁ、ネタばらしをしよう。
これまで述べてきたのは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる「帝国」とその続編「マルチチュード」の延長線上にある。
そこに保守色をまぶしてみたものだ。
ネグリ的な視線で見ればすなわち、「各『国家』に対して『帝国』が横軸として挿入されている」という構造を述べたものだ。
うーゎ、説明するのめんどくさい。「帝国」読んどいて。
 といいつつ、文字増やすのにざくっと言えば、
(各国家の集合としての)世界には共通の「商法」はない。慣習で資本は国境を越えて飛び交っている。常に有利な場所を求めて、だ。資本は移動し続けていき、現地の労働力を安く使う。ほんっとにざっくりと言えばこの資本の運動を「帝国」と呼んでいいと思うんだよ。で、同じく有利な地域、産業を求めて移動し続ける労働力を「マルチチュード」と呼ぶ。どっちも(限られた範囲ではあるが)自由で、双子の関係なんだよな。拘束(保護)するか、されるかだ。

 近代の「国家」と言うのは、内戦の状態を極力抑えるため人工的に作られたものだ(と、ネグリは見る)。僕もおおよそその通りだろうと思っている。
しかし資本の運動は、その近代国家の間を国境を問題とせずに行き来し、(国家の集合としての)世界全体を覆う。その運動とは、例えば「経済を牛耳る秘密結社」とかが動かしているのではなくて、アメリカのような巨大な国の事でもなくて、資本全体のダイナミックな運動、それぞれが勝手に「合理的に見える判断(不合理な判断をすると痛い目に遭う)」によって動いている、非常に有機的な集合の事なのだ。

 ==ここでいったん刻む==

 一方で「マルチチュード」とは、資本によるダイナミックな運動に呼応し、やはりダイナミックに産業や地域を移動する「人々」のこと。この「人々」は労働力とも言えるのだけれど、その中に(金になるならないに限らず)芸術とか哲学なんかも含まれるから「労働力」と言い切らないで「マルチチュード」と呼ぶ。多分その背景には「労働」と「仕事」を区別する考えがあるのだろうと思う。誰だっけこれらを区別したの。アレント?なんか女の人だったような気がする(あ、ここではジェンダーの事は書かないよ)。
まぁ、いいや。
 ようするにこの二つの概念によって世界経済は動いているって事。ほんとざっくりと言ってるよ?ほんとに読み込んでいる人に怒られそう。

 ここで僕が言いたいのは、ダイナミックに動いちゃう「人々」に秩序を与える役割を企業(とその資本)は持っているってこと(真逆も言える)。
 これで何文字だ?
 一方「マルチチュード」も「帝国」を動かす。移動、購買、労働、賞賛や批判等々で。
 あああ、疲れたよ。
つまるところ、第四の権力とは(横軸として)「帝国」であり、それを動かすのは「マルチチュード」であり、それを制御するのが三権であるという事。
 企業というかその資本(「帝国」の一部)は、人々を拘束するとともに保護をする役目を負っているといいたいだけなのにこの文字数なのだと、ネグリを通して僕は言いたいのだ。
 この文字数でもFBが許容するとするならば、よろしい。もっといろいろ持ってこようではないか。
だが、もう一回の投稿でこれでは僕が限界なので、このぐらいにしといたるわ。