先日、SNSと名の付くもののアカウントを、(恐らく)全て削除いたしました。
というのも、どういう事か判りませんが、何某かの引き金を合図に、私の元に時折訪れる軽い躁状態、というと大袈裟に過ぎて、もしこれを読んでくださる方が仮にいらっしゃるとすれば、その方を引かせてしまう可能性が充分に高いでしょうから、「テンションが高い状態」とでも言っておく方が、具合がいいように思いますので、そのようにしておきます。
先日、或るSNSにおいて、浅墓にも或る悪戯を知人にしてしまい、それがやや過ぎた悪ふざけになっている事に気付きつつも、時は既に遅く、大変きついお叱りを受けてしまいました。
「テンションが高い状態」が時折出る薬の服用を、私の病の為に医者から特に強いられている等という事は、この際全く言い訳にならない為、今後再び迷惑を掛けないように、SNSのアカウントをおおよそ全て削除した次第なのです。
さて、これまで述べた事は、私個人の浅墓ぶりを自嘲する例に過ぎません。
重要なのはその際にはたと気がついた一事です。これは私自身が浅墓な為に、これまで全く気が付かずに、漫然と30年と少しを過ごしてしまったというだけの、おおよその皆さんにおかれては、既に気が付かれているような小さな事ではあると思うのですが、30年と少しを生き恥を晒して、ようやく気が付いた事、である故に、私に大変な興奮を与えているのでしょう。書かなければ夜も眠れない程でありますので、羞恥に堪えながらではありますが、書いてしまいたいと思います。
生き物というのは、日々の生活の中で、選択と決断を常に強いられています。
それはもう誰でも気が付いている事で、それこそ私のような阿呆にもよく判っている事です。
私は名前が覚えられない性質でございますので、「誰それ」としか言えないので申し訳ないのですが、よく学者のような誰それ先生が「現代人は常に選択に追われて」等と憂いて口になさりますけれども、それは本当かと、昔からそうではなかったのかと、先生が見て居られないだけなのに、さも自明のように仰るのもどうなのでしょうかと、まぁ、そんな風に、意地悪く思うのですけれども、まあそれは、駄文が無駄に長くなりますので、余談としておきます。
私が申し上げたいのは、所謂「選択」は、前、つまり直線的にいえば、未来方向の「目の前」に並んでいる選択肢のみならず、後ろ、つまり過去方向のすぐ後ろ にも あろうという事なのです。
「目の前」にある選択肢の中から、何かをひとつを選択するには、「私は●●だから、これを選択する」という、これまでの文脈「●●」を交えた判断を下さなければいけない、と、そう思うのです。
つまり「目の前」の他に、「すぐ後ろ」にある選択肢から、過去から続いている文脈の解釈の為に、何某かの選択肢を選んでいると、そう思うのです。
例えば、「私は【イ】を愛好していた。だから【ロ】を選択する」と決断するとします。
この場合、過去の自分について「【イ】を愛好する人間」であると選択しています。
しかし、本当にそうであったのか、些かの疑わしさもあるのではないかと、私などは思うのです。
「【イ】を文脈上愛好しているような振舞いをしていたが実は嫌々であった」かも知れず、「手慰みに【イ】をしていただけで愛好とは言えない」程度かもしれない。「付き合いの為にやっていた」だけかも知れないし、「本当は嫌で嫌で仕方なかった」かも知れない。
それら過去のことに関する、今の視点からの感想など、主観の彼岸、というよりも寧ろもっと単純に、他人の視線と呼んでも、さほど差し支えがないのではないかと、そう思うくらい、遠いものなのですから、 今ここにいる他人の視点で「選択」しなければいけない 。「目の前」を選択する前に、「後ろ」を選択しなければいけない。私はそう思うのです。
いや、寧ろ割合的には、「目の前」よりも、「後ろ」への選択の方が、より重きを為しているのではないでしょうか。文脈を “今” 作る必要があるのですから。
駄文の最初に戻ります。
私が悪戯を「やりすぎた」のは、「後ろ」への選択肢を誤ったからだろうと、そう思うのです。
「やりすぎる」という事は、絶対的な基準があって「やりすぎ」と判定されるものではなく、文脈上判断される事です。
私はその文脈を作る為の選択を誤ったのです。
何でも許されるかのような、そんなテンションの高さとあいまって、浅墓さもあり、「過去」への認識、文脈の選択を見事に誤ったのだといえるでしょう。
つまり「自分が選択した(後ろの)選択肢ほどは親しくなかったてへぺろ」であったと言えるでしょう。
これしきの事を30過ぎて学びました。全くお恥ずかしい上に申し訳ない事です。
そして蛇足ながら、この考えを補足いたしますと、「後ろ」の選択さえ巧くやってしまえば、「目の前」の選択も変る、という事が言えるでしょう。
私は結婚後、まぁ家庭を持つと皆そうなのですけれども、生きるのに、また貧しくともそれなりに幸福な、我が家庭を維持するのに必死で、音楽など到底出来なくなったわけです。その上私が神経質にすぎるせいか、誰かがいると何も作り出せないのです。全くお恥ずかしい限りです。
そしてそれは、当然音楽に没入するのが好きである一方で、家庭を維持しなければいけないという捩れを生み、私を恋々とさせつつ悶々とさせ、何にも手を付けられず、気晴らしの術も知らず、私を追い詰めているのです。
しかしながら、先程から申し上げているように考えれば巧く解決する筈です。
「【イ】を愛好などしていなかった」と「後ろ」に関して選択してしまえば良いのです。
「音楽をやることが大好きだった」という文脈ではなく「最初から何も趣味は無く、気晴らしの術も知らなかった」とチョイスしてしまえば、話は簡単です。恋々として悶々とする必要も無い。巧い演奏をする人を見て羨ましく思うことも無い。そんな楽な日常を手にする事が出来るのだろうと、そう思うのです。
これは決して「後ろ向きな」考えであるとは思いません。
寧ろ「後ろを見て」、「前向きに」前進する為の、単純でポジティヴな方法なのかも知れません。
30を過ぎた、いい加減歳を食った大人が、これしきの事に気が付いて嬉しがり、ブログなどにこんな事を書く、というのも、また滑稽な話でお恥ずかしく、申し訳ない気持ちで一杯です。
しかしせめて、この「チラシの裏」に、どうしようもない自明の事を書きなぐる余地だけは、残しておきたいと、強く思う次第であります。申し訳ない。大変申し訳ない。