とても偉大な一歩の為に

22.04.2012
02:51

彼は統合失調症を患っていた。
或る日或る女性に恋をした。
私は真顔で「行け」と言った。
それがそこから彼がいなくなる瞬間でも、
彼女がそこからいなくなる瞬間でも、
玉砕してでも良いから行けと言った。
それが彼の核になると思ったからだ。

涙が止まらない。
失敗するかも知れない不安
彼の行く人生を思う。
核は「自信」ではない。父の名に代わるもの。
同一性を作るもの。
AからSへを阻止すべく
言葉の限りをつくしつつ。

彼のしたためた彼女への手紙を
無駄にしてはならないと
彼が躊躇するとても偉大な一歩の為に
ちからいっぱい蹴りを喰らわす。

失敗してもそれは彼の核になり
彼は再び浮上して
私を遥かに追い抜いて
もとの位置へと戻るのだ。

玉砕してでも行け
私を恨め
私は持てる数千円と
言葉の限りの蹴りを喰らわして
「前へ!」と叫んだのだ。
私を恨め 私を恨め
恨むほどなら結構だ
私を恨め 私を恨め

チラシの裏

25.03.2012
14:27

 先日、SNSと名の付くもののアカウントを、(恐らく)全て削除いたしました。
というのも、どういう事か判りませんが、何某かの引き金を合図に、私の元に時折訪れる軽い躁状態、というと大袈裟に過ぎて、もしこれを読んでくださる方が仮にいらっしゃるとすれば、その方を引かせてしまう可能性が充分に高いでしょうから、「テンションが高い状態」とでも言っておく方が、具合がいいように思いますので、そのようにしておきます。

 先日、或るSNSにおいて、浅墓にも或る悪戯を知人にしてしまい、それがやや過ぎた悪ふざけになっている事に気付きつつも、時は既に遅く、大変きついお叱りを受けてしまいました。
「テンションが高い状態」が時折出る薬の服用を、私の病の為に医者から特に強いられている等という事は、この際全く言い訳にならない為、今後再び迷惑を掛けないように、SNSのアカウントをおおよそ全て削除した次第なのです。

さて、これまで述べた事は、私個人の浅墓ぶりを自嘲する例に過ぎません。
重要なのはその際にはたと気がついた一事です。これは私自身が浅墓な為に、これまで全く気が付かずに、漫然と30年と少しを過ごしてしまったというだけの、おおよその皆さんにおかれては、既に気が付かれているような小さな事ではあると思うのですが、30年と少しを生き恥を晒して、ようやく気が付いた事、である故に、私に大変な興奮を与えているのでしょう。書かなければ夜も眠れない程でありますので、羞恥に堪えながらではありますが、書いてしまいたいと思います。

 生き物というのは、日々の生活の中で、選択と決断を常に強いられています。
それはもう誰でも気が付いている事で、それこそ私のような阿呆にもよく判っている事です。
私は名前が覚えられない性質でございますので、「誰それ」としか言えないので申し訳ないのですが、よく学者のような誰それ先生が「現代人は常に選択に追われて」等と憂いて口になさりますけれども、それは本当かと、昔からそうではなかったのかと、先生が見て居られないだけなのに、さも自明のように仰るのもどうなのでしょうかと、まぁ、そんな風に、意地悪く思うのですけれども、まあそれは、駄文が無駄に長くなりますので、余談としておきます。

 私が申し上げたいのは、所謂「選択」は、前、つまり直線的にいえば、未来方向の「目の前」に並んでいる選択肢のみならず、後ろ、つまり過去方向のすぐ後ろ にも あろうという事なのです。
「目の前」にある選択肢の中から、何かをひとつを選択するには、「私は●●だから、これを選択する」という、これまでの文脈「●●」を交えた判断を下さなければいけない、と、そう思うのです。
つまり「目の前」の他に、「すぐ後ろ」にある選択肢から、過去から続いている文脈の解釈の為に、何某かの選択肢を選んでいると、そう思うのです。

 例えば、「私は【イ】を愛好していた。だから【ロ】を選択する」と決断するとします。
この場合、過去の自分について「【イ】を愛好する人間」であると選択しています。
しかし、本当にそうであったのか、些かの疑わしさもあるのではないかと、私などは思うのです。

「【イ】を文脈上愛好しているような振舞いをしていたが実は嫌々であった」かも知れず、「手慰みに【イ】をしていただけで愛好とは言えない」程度かもしれない。「付き合いの為にやっていた」だけかも知れないし、「本当は嫌で嫌で仕方なかった」かも知れない。
それら過去のことに関する、今の視点からの感想など、主観の彼岸、というよりも寧ろもっと単純に、他人の視線と呼んでも、さほど差し支えがないのではないかと、そう思うくらい、遠いものなのですから、 今ここにいる他人の視点で「選択」しなければいけない 。「目の前」を選択する前に、「後ろ」を選択しなければいけない。私はそう思うのです。
 いや、寧ろ割合的には、「目の前」よりも、「後ろ」への選択の方が、より重きを為しているのではないでしょうか。文脈を “今” 作る必要があるのですから。

 駄文の最初に戻ります。
私が悪戯を「やりすぎた」のは、「後ろ」への選択肢を誤ったからだろうと、そう思うのです。
「やりすぎる」という事は、絶対的な基準があって「やりすぎ」と判定されるものではなく、文脈上判断される事です。
私はその文脈を作る為の選択を誤ったのです。
何でも許されるかのような、そんなテンションの高さとあいまって、浅墓さもあり、「過去」への認識、文脈の選択を見事に誤ったのだといえるでしょう。
つまり「自分が選択した(後ろの)選択肢ほどは親しくなかったてへぺろ」であったと言えるでしょう。

これしきの事を30過ぎて学びました。全くお恥ずかしい上に申し訳ない事です。

 そして蛇足ながら、この考えを補足いたしますと、「後ろ」の選択さえ巧くやってしまえば、「目の前」の選択も変る、という事が言えるでしょう。
 私は結婚後、まぁ家庭を持つと皆そうなのですけれども、生きるのに、また貧しくともそれなりに幸福な、我が家庭を維持するのに必死で、音楽など到底出来なくなったわけです。その上私が神経質にすぎるせいか、誰かがいると何も作り出せないのです。全くお恥ずかしい限りです。
 そしてそれは、当然音楽に没入するのが好きである一方で、家庭を維持しなければいけないという捩れを生み、私を恋々とさせつつ悶々とさせ、何にも手を付けられず、気晴らしの術も知らず、私を追い詰めているのです。

 しかしながら、先程から申し上げているように考えれば巧く解決する筈です。
「【イ】を愛好などしていなかった」と「後ろ」に関して選択してしまえば良いのです。
「音楽をやることが大好きだった」という文脈ではなく「最初から何も趣味は無く、気晴らしの術も知らなかった」とチョイスしてしまえば、話は簡単です。恋々として悶々とする必要も無い。巧い演奏をする人を見て羨ましく思うことも無い。そんな楽な日常を手にする事が出来るのだろうと、そう思うのです。

 これは決して「後ろ向きな」考えであるとは思いません。
寧ろ「後ろを見て」、「前向きに」前進する為の、単純でポジティヴな方法なのかも知れません。
30を過ぎた、いい加減歳を食った大人が、これしきの事に気が付いて嬉しがり、ブログなどにこんな事を書く、というのも、また滑稽な話でお恥ずかしく、申し訳ない気持ちで一杯です。
しかしせめて、この「チラシの裏」に、どうしようもない自明の事を書きなぐる余地だけは、残しておきたいと、強く思う次第であります。申し訳ない。大変申し訳ない。

まじないの延命

05.03.2012
00:19

 どうにもお恥ずかしい事に、私はこれまで、ある事を多くの人と共有したまま、その共有する概念自体を疑わずに、のうのうと生きてきたようなのです。まったくお恥ずかしい限りです。

 先程お茶を煎れている時でございました。急にはたと気がついて、狼狽いたしましたのですけれども、私たちは例えば法律を論じる時、政治を論じる時等々、天下国家の「民衆」などについて、床屋談義などにて語る時、しばしば「尊厳」という言葉を使うように思われます。「人間の尊厳」だとか、そういった用法です。他に法に関するお話などでは「身体生命の自由」云々を始めとした、「何某の自由」等と、したり顔で、恥ずかしげもなく口にしたりするのですね。
 それらの言葉は、基本的に私たちの耳によろしく、私たちにとって何か所与の、素晴しいものがあるかのように思わせてくれるもので、とても頼もしく、心地の良いものでございますね。
少なくとも、私はこれまで何の疑いもなく、「ああ、民主主義というものは、なんと素晴しいものであろうか、個人の自由や尊厳が大事にされるとは、とても素晴らしい事ではないか」と、間の抜けた顔で、口を半ば開きながら、そう心中呟いて、全く疑わずにおりました。お恥ずかしい限りです。

 先程の「お茶を煎れている私の気付き」が申しますには、それは、つまり「尊厳」云々などといった、耳に心地良い概念等々は、寧ろ排他的な側面を強く持ち、耳に心地良い面などよりも、その排他的な面の方が大変有効な価値があり、それが私たちの社会に大きく寄与しておるのではないか、まぁ、大雑把にそういう事なのでございましょう。

 世間でも、社会でも、呼び名は何でもよろしいのですが、おおよそそのような場にて称揚されるに於いては「耳に心地良い言葉や、所与のものと多くの人々に思われる概念」、つまり「尊厳」等の概念でございますが、そういうものは、何某かの条件を揃えた人間から、容赦なく剥奪する為に、そうする事で本来の機能を、本当に発揮するように思われてならないのです。
 つまり、世間に対して、社会に対して、或いはお天道様に対して、何らかの大失態を犯した時、それらは剥奪される事によって、本当の、強力な機能を発揮するように思うのです。
「大失態を犯したもの」と、それ以外の私たちとの間に、差を作り、上下を作る機能です。
 そのものが犯した「大失態」は何でも良いのです。些細な事、何の法にも触れない、可愛いくらいの小さな失敗でも良いのです。何かの忘れ物でも、体調の悪さでも、醜悪な姿だというだけであっても、要領が悪い等といった事でも、何者かによる無根拠な讒訴でも、何でもよろしいのです。
 想像的な、最近流行の言葉で言えば「絆」でもよろしいかも知れません。それらから、何かの理由で、「尊厳」を剥奪された時、排斥、弾圧、拷問、その他呼び名は何でもよろしいのですが、それらの責め苦は開始されるのです。おおよそその発端は先程申し上げたように、些細な事である事もしばしばなのです。勿論、大罪を犯したものに対しても、同様であるように思われます。が、大抵は理不尽なものであろうかと、私には感じられます。
 自分に「尊厳」があると信じたいが為に、その為に自分は素晴しいものになることが出来、またそれが捩れるに及んで、自分が素晴しいからこそ尊厳が付加されるのだと思いたいが為に、傲慢な自意識の為に、「尊厳」のない人間を、懸命に拵えようとするのでしょう。

 それらを別の視点で言うならば、法が出来た時点で、法の外が出来、それは法が現れるに及んで、不可分であるという謂いを用いても、よろしいのではないかと思います。多少の気恥ずかしさを堪えて「構成的権力」の副作用と、格好良く申し上げてもよろしいかも知れません。
「人間として産まれたからには所与のものである」筈の「尊厳」を奪う事によって、今これから責め苦を受けんとするもの、または既に受けているものは、人間ではなくモノと看做され、「尊厳」等の「耳に心地良い言葉」という、まじないの御利益を延命する為に供されるというわけです。そのように御利益を延命し続けるまじないによって、私たちは尊厳ある、自由を重んずる立派な、大変立派な、善良な市民としての想像に耽るのでございましょう。
「いじめは良くない」
確かにそうでございましょうし、問題に立ち向かうお役所の皆さんや、教育関係の皆さんのご努力には頭の下がる思いではありますが、このような構造を持っている以上、大変なご努力も、砂絵のようなもので、既にに意味を為しておらず、皆さんが、表面的にでも、強い関心を持っておられるいじめが、なくなる、或いは無くす事に成功するという、人類にとっての一大事件は、永久に起こらないであろうと、そう愚考いたします次第です。
 私たちの尊厳の為に、耳に心地良い諸概念の為に、いじめは存続するのですから、無理も無い話です。いじめといった問題に懸命に立ち向かい、ご努力をしていらっしゃる皆さんのせいでは決して無いと、私自身存じておりますし、また誤解の無いよう、念の為、申し上げておきますが、私は嘲笑いながらこういった文章を書いているわけではございません。
しかしながら、先程申し上げたように、変え難いこの構造の為に、本日も、明日も、昨日まで何の問題もなく生活していた一個の人格が、まじないの延命の為に供されるのしょう。

まったくお恥ずかしい限りです。まったく。

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